ピティナというと、今では自分の生徒さんがコンペティションを受けたり、ステップに参加したりしているため、指導者の立場としてその舞台を見守っているのですが、子供の頃、私自身もコンペティションに出ていました。全国大会を目指して練習した日々があったのです。
幸運にも全国大会に出場し入賞できたことは、ひとつの鮮烈な記憶として、自分の中にはっきりと刻み込まれています。
- ピティナ・ピアノコンペティションへの参加を検討している
- 全国大会に出場したい
こういった方々に少なからず有益な情報になるかもしれない、と思い、当時のことを記事にしてみました。


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ピティナ・ピアノコンペティション全国大会を目指していた私の、それまでのピティナ歴
小1の時に初めて受けたピティナ・ピアノコンペティションでは、地区本選当日に高熱でダウン。入賞ならず。
小2の時に、B級に参加。前年にそれはもうとんでもなく悔しい思いをしたので、猛練習。自分で選択した課題曲が大好きになり、毎日楽しく練習できた。結果は地区本選入賞。全国大会には届かず。
当時の環境や状況
地方に在住。色々とやりたいタイプで、ピアノの他にも習い事をたくさんしており、忙しい日々を送っていた。
小3で、前年度と同じB級への参加を決める。この年、全国大会で入賞することとなる。
同じ小学校の同じ学年にも、例年、ピティナ・ピアノコンペティションを受けている子が何人かいた。
私がクラシック音楽にどハマりしたのは小学校高学年の時だったので、この時期はそれほど音楽を聴き込んでいたわけではなかったが、それでも、ピアノの曲は大好き。
「素敵な曲を素敵に弾くのが楽しい」と思い、日々ピアノと向き合っていた。

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指導してくださった先生たち
私が指導していただいていたのは、音楽大学を卒業した先生。
子育てに忙しくしておられたということもあり、この時は片手で数えられるほどの生徒さんしかとっていなかった。
「(生徒さんが少ないため)うちでは発表会をしてあげられないけど、ステージの経験を積むために、コンクールに参加するのはどうだろうか」ということで、私も含め生徒さんらは毎年、一つか二つのコンクールに出ていた。
時々、生徒さんたちをレッスン室に集めてステージのリハーサルのようなことをしてくださったので、よい予行練習になった。
また、先生の勧めで、この年から数ヶ月に一度、国内の大学で教授をしているピアニストの先生のレッスンを受けることとなった(その先生は、私の住んでいた市に、それ以前から特別レッスンをしに定期的にいらしていた)。
どのようなレッスンを受けていたか
普段指導していただいていた先生は、とても丁寧な教え方。昔の楽譜を見返すと、コンクール用の曲でなくとも、一つ一つにかなりの時間をかけていたことが分かる。
穏やかで本当に優しかったが、厳しい面もあった。例えば、コンクールでうまく弾くことができ、結果も良いものだったとしても、演奏の細かい部分で何か良くないところがあると注意を受けた。
一番印象的だったのは、先生の表現力が豊かだったこと。基本的には静かな喋り方だけど、身振り手振りで表現したり、口調を変えたりして、「こんな風に弾くと素晴らしくなるかもしれないよ」ということを示してくださった。
定期的にきてくださっていたピアニストの先生は、恐ろしい方だという噂で、言われたように生徒ができないと青筋立てて怒る、生徒が弾けていないとそもそもレッスンをしてくれない、とも言われていた。怒られるのはイヤなので、それまでに増して私は猛練習をした。
初めてのレッスンで、先生があまりにも優しくてよく笑うので、拍子抜けした。そして、「怖いと有名なピアニストの先生が、私に対してはすっごく優しかった。私、もしかしていけるのかも…」とポジティブにとらえ、緊張感を持ちつつも、先生のレッスンを楽しみにするようになっていった。
先生は、ここの音楽はこの音に向かっていくのだ、ということなどを、歌ってみせてくださることが多かった。また、楽譜を隅々まで読み込むことがいかに大事なのか、そのレッスンから学びとることができたように思う。
地区予選と地区本選
運良く私は、それまでに受けたコンクール等の全ての予選で通過することができていた。
これが良い方に作用し、この年も、「弾けば必ず通る」という根拠のない自信を持って、地区予選に臨むことができた。その結果、無事に地区本選への切符を手にすることとなった。
本選の日が近づいてきたある日、驚くべき一報が耳に飛び込んでくる。遠方に住む親戚の女の子がピティナの同じB級で全国大会へ進めることになった、というのだ。
——すごいなぁ。私も、頑張れば全国へ行けるだろうか。
大いに励まされた。何か、ますます前向きな気持ちで練習できるようになった。
家に飾られている、亡くなった母方のおじいちゃんの写真が入った写真立ての裏に、短い手紙を置いた。
「本選で1位になって、全国大会へ行きたいです」
(おじいちゃん、どうか見ていてください)という祈りであり、(必ずや全国へ行ってみせます)という誓いでもあった。
本番での演奏は、渾身の出来だったように思う。過去の自分の演奏は、覚えているものと覚えていないものにはっきりと分かれており、この年のピティナに関しては、正直なところ予選と全国大会でどのように弾いたのか、全く記憶に残っていない。
でも、本選の演奏は違った。今でも断片的に覚えている。(よく打鍵できているな。「濃い」音を響かせられているな)と感じながら弾いていた。
私は、全国大会への出場を決めた。
付き添いで来てくださっていた普段教わっている先生が、大喜びしていた。
——先生がこんなに喜んでいる。努力して良かったな。
どこか夢見心地で、そんなふうに思っていた。
全国決勝大会
先ほども言及したように、全国大会での自分の演奏を思い出すことが、全くできない。
でも、全国大会に行ったときに見た様々な風景、他の出場者の様子など、鮮明に覚えていることもたくさんあるから不思議だ。
自分の出番が終わり、親戚の女の子と並んで座り、他のコンテスタントたちの演奏を聴いていたときのこと。ある出場者がステージに登場した瞬間、傍にいた彼女が「上手そうだね」と囁いた。数日後の表彰式で、その出場者が金賞、つまり全国のB級の参加者の頂点に輝いたということが判明する(当時は、金・銀・銅賞は一人か二人ずつだった)。素晴らしい演奏をする人は、圧倒的な自信をオーラのごとく纏っているものなのかもしれない、と思わされる出来事だった。
私自身は、ベスト賞に入ることができた。
しかし、悲しくて、残念で、仕方がなかった。身のほど知らずと言えばそれまでだが、「出るからには1位になりたい」と考える極度の負けず嫌い。ベスト賞は不満だった。
親に「全国大会で入賞できたなんてすごいことなのに、なんでそんなにふくれているの。ほら、〇〇ちゃん(親戚の子)はとても喜んでるじゃない」とめちゃくちゃ怒られた。親戚の子も同じベスト賞だったのだ。
なんと、後日、この結果を報告した小学校の担任の先生(小学校を休んで全国大会へ行ったので)にまで、同じ理由で怒られた。「全国大会で入賞したなら、もっと嬉しそうにできないの?」
そんなことを言われても、悔しいものは悔しいのだ。自分の本当の気持ちがそうなのだ。
けれども、表彰式のすぐ後に行われたパーティーは、ほんとうに楽しかった。
きらびやかな会場。美味しい食事やデザート。高名な先生と写真を撮ることもできた。あんなに大きな、キラキラしたパーティーに参加できたのは、人生で初めてだった。
おわりに~ピティナ・ピアノコンペティションの全国大会に行くには
これが、私がピティナ ・ピアノコンペティションの全国大会で入賞した時の記録です。
B級という、コンペティションにおけるボリュームゾーンで全国大会へ行くことができたのは、運が味方してくれたというのも大いにあったと思っています。
でも、音楽とは無関係だった両親が、私のやりたいことを、私のやりたいようにやらせてくれたからこそ、また、先生方が情熱を傾けて指導してくださったからこそ、結果を残すことができました。
地方に住んでいた私が東京の大きな舞台へ上がるチャンスを得られたのだから、貴重な体験でした。
課題曲が発表されてから予選・本選・全国大会を終えるまでの長きに渡り、コンクールのために奮闘し、コンクールとは何たるかということを、小学3年生にして、身を持って経験することができました。
それは、後にピアノを生業とすることになる私にとって、紛れもない大きな大きな糧となったのです。